舟を編む、と、辞書のおはなし。昔書いた文章から。
「本を読むのが好き」ではなくて「本が好き」だ。
小さいころから、絵本をよく読んでいた。
このころはまだ、絵本を読むのが好きな、ただの幼稚園児だった。初めて「本が好き」だなあ、と思ったときのことをはっきりと覚えている。
小学校1年生、入学したての4月。これから1年間使います、と言って、新しい教科書が配布された。お話を読むのが好きだった私は、国語の教科書を真っ先に開き、中にどんなお話が載っているのか確認作業を始めた。
…そのとき。
紙をぱらぱら、とめくる微かな風とともに、真新しい紙とインクのにおいがふっと、鼻をかすめる。
(良いにおいだな…)
これが、私が本を好きになった瞬間だった。
思えばそれまで読んでいたのは絵本などの薄い本や、かたい紙の本がメインで、紙をぱらぱらめくるような感じではなかった。本のにおいを嗅いだのは、1年生の国語の教科書が初めてだったのだ。
真新しい紙と、インクのにおい。
知識とか教養とか、知恵といったものにもし、においがあるとしたら、それは本のにおいではないかと思う。そして本のにおいとは、すなわち紙とインクのにおいである。(…実は、古本には古本の、また別の魅力あふれるにおいがあるのだが、それについては別の機会に)
さてその後の私は、一生追い続けるであろう大切な作家との出会いなどもありながら、これまでずっと本を読んできた。
ことばを勉強するときに欠かせない辞書というものは、あらゆる書物の中でもっとも良いにおいのする本だということを知った。新しい辞書を買ったらまずにおいを嗅ぐよね~、と言っても分かってくれる人はとても少ないけれど。
そして今、印刷会社で働いて、日々せっせと本を作っている。絵本だってマンガだって、カタログだって写真集だってエロ本だって、なんだって作る。教科書も辞書も作る。もちろん知識の泉と呼ぶには程遠い本(!)も、世間にはあふれている。
でも、
私は本が好きなんだ。「インクで印刷して折って綴じた紙の束」が。
出来たてほやほやの本というのは、まだ糊が完全に固まっていなくて、少しあったかくて、ツンとしたにおいがする。たまに工場に行って出来たての本を手に取ると、もうなんとも言えない幸せな気持ちになる。印刷機や製本機をずーっと眺めていても飽きることがない。
世の中は活字離れ、本も紙の時代ではないともう長いこと言われていて、もしかしたらこの先、紙の本は(絶対になくなりはしないと思うけど)かなり高価な嗜好品になっていくのかも知れない。コレクターズアイテムのような。
そうしたら私の会社は儲からなくなって、つぶれてしまうんだろうな。どうなっちゃうんだろう… と、将来を少し悲観してしまうときもある。
でもなあ、本、好きだしな。
周りにもまだ結構本好きいるし、しばらくは大丈夫かな、なんて楽観的に生きているが。
最後に。
『舟を編む』は皆さんご存知の、三浦しをんさんの本屋大賞受賞作のタイトルである。辞書を作るのに関わっている人たちの静かで、でも熱い日常が描かれている。かなり長い時間にわたる物語を描いた作品だが、私の会社にはこれを地で行く様な話がごろごろある。
先日、私の上司(かなりえらい方)のところに、私より少し上の先輩社員が1冊の辞書を持って来られた。
「本部長、やっとできました」
…聞くと、その辞書は(ベトナム語の辞書だった)本部長がまだ平社員だったときに始まった仕事で、20年近い年月を経てやっと本になり、世に出たというものだった。最初に担当していた社員は本部長になり、どんどん若い社員に担当が引き継がれていって、今ようやく、形になったのだった。
「すごい!…『舟を編む』みたい!!」
後で当時の苦労話などもいろいろ聞けた訳だが、本当に嬉しそうにお話されていたのが印象的だった。買うと〇万円もするような、専門性の高い辞書だ。
私の仕事は、こういう仕事である。
もちろん嫌なことも辛いこともたくさんあるけれど。
『舟を編む』まだ読んでいない方がいたら、ぜひ読んでみて欲しいです。