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本にまつわるエトセトラ。

自分を偽ること

1年以上ぶりに書いてみようと思った。

三浦春馬さんのことを。

 

このブログ(と呼んでいいのかも悩ましいけれど)は本について書くとテーマを決めて始めたけれど、まあ別にそれに縛られる必要もないし

2週間前に起きた一人の俳優の死が、まだ自分の中で大きな塊となってずっとあることが、自分でも思っていなかったことで、ことの衝撃を大きくしている。時間が経つにつれて、その衝撃がどんどん大きくなる。

 

私は本を読むのが好きで、小さい頃から、もう本を読むなと大人に叱られるくらいずっと本を読んできた。だから趣味は読書です、ともちろん言えるのだけど、私の趣味は他にもいくつかあって、そのひとつが舞台鑑賞である。

 

小学生の時に、地元に劇団四季の「cats」がやってきた。海に近いところにテントのような小屋が建って、公演を行い、テレビコマーシャルを流していた。友達が親につれて行ってもらったという話を聞いて、なんとなく羨ましく思った。内容はよくわかっていなかったけど、流行りにのった友達が羨ましかった。

 

中学生になった頃、地元に劇団四季の初めての専用劇場ができた。こけら落とし公演は「オペラ座の怪人」で、これもテレビでバンバンコマーシャルを流していた。コマーシャルで流れる音楽がとても美しくて、どうしても観たいと思った。

母に頼み込んで、チケットを買ってもらい、C席でだいぶ舞台からは遠かったけれど、初めての舞台を観ることができた。とても感動した。オペラ座の怪人はどちらかと言うと大人向けの話で、中学生の私には、クリスティーヌと怪人の歪んだ愛の形を理解することはできなかったけれど、とにかく音楽が素晴らしく、衣装が美しく、夢のような空間だった。

 

大学生になって上京し、勉学と部活動の合間にバイトをしてはせっせと舞台を観に行った。マチネーは少しお手頃なお値段だし、学生は平日の昼間にキャンセル待ちに並ぶこともできるし、下北の小劇場からPARCO劇場から、もちろん最初に舞台の素晴らしさを教えてくれた劇団四季の舞台も、なんでも食い入るように観た。いつかブロードウェイで本場のミュージカルを観たいと言うのが夢になった。

 

初めて三浦春馬と言う役者の舞台を観たのは、地球ゴージャスの「怪盗セブン」だった。私は岸谷五朗さんと寺脇康文さんの地球ゴージャスの大ファンで、彼らの舞台を毎年楽しみにしていたので、そこに三浦春馬という、彼らの事務所の後輩でもある、絶賛売り出し中の俳優が出演するということにあまり興味がなかった。

もちろん彼のことを知っていた。その数年前に志田未来さんと共演した「14歳の母」というドラマが世間に衝撃を与えて、ただその時はどっちかというと志田未来というすごい女優が現れた!ということのほうが大きかったように覚えている。その志田未来さんを妊娠させる恋人役を演じていたのが、三浦春馬さんだった。

めちゃくちゃ爽やかなルックスと、繊細そうな表情が印象的だった。その頃流行り始めた「イケメン」という言葉がぴったりの男の子だった。私の三浦春馬さんに対して持っている印象はそのくらいだった。舞台に挑戦するのには少し驚いた。そういうイケメン路線の若い俳優さんは、テレビドラマでラブコメの主演をしたり、映画に出たりが王道だし、そういったタイプの俳優が早い段階で舞台に挑戦することは、稀だった。

 

初めて舞台で観た三浦春馬さんは、ものすごい存在感があった。スタイルがよくて今時のイケメンだから、顔は小さい。本来顔が小さいと舞台では表情がよく見えないから、舞台役者には顔の小ささは逆に不利になるはずなのに、彼の存在感はそのセオリーを超えてきた。一言で言うと、たまげた。歌もうまい。岸谷五朗さん、寺脇康文さん他、元宝塚の女優さんや森公美子さんなど、ベテラン、実力のある俳優に囲まれても、全く見劣りしなく、声量もあるし、声もいいし、表現力もあって、とにかく目を惹きつけられる。

 

3時間弱のお芝居を観終えた時には、すっかり虜になっていた。三浦春馬、すごいよ!ただのイケメンじゃなかったよ!そう、誰かに教えたかったが、その時はなぜか、三浦春馬が好きと言うのが気恥ずかしくて、あまり言えなかった。少し経ってから、三浦春馬と言う役者は舞台を観るとイメージが全然変わるから、観てみたらいいよ、くらいは言えるようになったと思う。

 

それから、なんとなくずっと、彼のことが気になっていた。でも全然ファンというほどではなかった。テレビや映画、お芝居も、彼が出ているから、という理由で観たことはない。でも、少しずつ大人になって、彼が40代とかになったら、どんないい男になるのか気になっていた。ずっと見ていたい役者だった。ずっと見ていられると勝手に思っていた。

 

2週間前の土曜日、15時半から16時まで、ピアノのレッスンがあった。レッスンが終わりスマホを見たら速報が入っていた。最初は読み間違えたと思って2、3度画面を見直した。リンクを辿ってネットのニュースを何度も何度も読んだ。あまりに驚きすぎて、しばらく道端で茫然としてしまった。道を歩いている知らない人たちに、あなたたち知ってるの、知っているなら何でそんなに平気そうなの、と尋ねて回りたかった。

 

その日家に帰ったら、テレビで「音楽の日」と言うのをやっていて、ストーリーのあるものを観る気にもならなかったので、ちょうどいいと思ってずっと見ていた。そしたら、彼と親交の深い城田優さん(彼も私は舞台をたまたま観て、好きになった俳優のひとりである)が、本当に偶然だと思うが、「キセキ」と言う歌を歌った。歌詞が亡くなった友人を思わせるものだったし、城田さんが本当に憔悴している中、力を振り絞り、溢れる気持ちを込めて、涙を流しながら歌っているのを観て、私もだいぶ泣いた。

 

彼の死がどうしてこんなにつらいのか、悲しいのか、こんなにショックを引きずっているのか、いまだに分からない。これまでは、日々の生活の中で彼のことを考えることはほとんどなかったのに。どうして死んじゃったの。死んだらおしまいなのに。死んだら、おしまいなのに。死ぬのだけは、ダメなのに。どんなに苦しくても、どんなにつらくても、死んじゃったら、おしまいなのに。その週末、ずっとそんなことを考えて過ごした。

 

もちろん、彼が死を選んだ理由は分からない。彼の一番近くにいた人たちの苦しみを思うと、もっとつらい。想像を絶する苦しみではないかと思う。彼が生前収録したと言う番組を先日観て、少し疲れているように見えたような気もしたけれど、それも結果を知っているからであって、もし三浦さんが今も生きていたら、何の違和感も抱かない可能性も高い。私は、その二日後に彼が死を選ぶと言う結末を、知っているから、その笑顔を見て、少しの影を感じるような気がするだけだ。

 

きっと、彼が、耐えがたい苦しみを抱えていることを、(当たり前だけれど)完全に隠して、笑顔で、前向きな言葉を発し、時には同じ苦しみを感じている人々を励ましたり、そうやって生きてきたことを、彼がいなくなるまで分からなかったから、私はつらいのだろう。好きな人が、苦しんでいることに、気づけなかったことが、この悲しみの根っこにあるのだろう。もし気づいても何かできるわけじゃないかもしれないけれども、彼を好きだった人はみんな、そう思っているから、悲しみが余計に大きいのだろう。そして、時間を戻すことは、誰にもできない。

 

まだ、悲しみや苦しみはしばらく続きそうだ。少なくとも私の心の中には、彼のことがまだどこかにずっとひっかかっている。何かの折に彼を思い出し、少しの間心が痛む。自分で思っていたよりもずっと、私は三浦春馬と言う俳優が好きだったのだと、彼が亡くなってから気づく。

 

彼が、自分を偽っていたと思うと、とてもつらい。

 

自分の周りに、同じように苦しんでいる人がいるのではないかと、もしいたらどうしたらそれに気づいて、その人にとって良いやりかたで、手伝うことができるのかと、最近考えている。すごく難しいことだ。助けられると思うこと自体がとてもおこがましいと言うか、傲りのようにも思える。でも、もし、苦しい人がいたら、その人を苦しいままにはしたくないと思う。もし自分に何かできることがあるなら、したいと思う。

 

それがその人にとって苦しみを増長することにならないようにするのは、とても難しい。

 

そんなことを、ずっと考えている。